輝く女性の生き方図鑑 Vol.72
50代 ラ・クォール本町クリニック院長 1児の母
今日は、ラ・クォール本町クリニックの院長であり
株式会社マキシマの代表、そして
女性医師のキャリア形成・維持・向上をめざすNPO法人 イージェイネットの
代表理事でもある瀧野敏子さんのご紹介。
実家は開業医。
両親共に産婦人科医という環境に生まれた敏子さん。
子どもの頃から、医者という仕事がどういうものなのか
また、産婦人科開業医の大変さなどを目の当たりにして育ってきた。
野口英世やアルベルト・シュバイツァーの伝記を読んで、医師の仕事に憧れたり...
アポロの月面着陸をテレビでみて感動し、通訳の仕事に憧れたり...
将来のいろいろな可能性に想いを馳せながらも
高校進学後も、理系に進むか文系に進むか、なかなか決め切れずにいた。
理系よりも文系の方が得意で、好きではあったものの
「通訳は人の影になる仕事だから、メインプレイヤーになれないので面白くないのでは...」
そんなお母さんの言葉が胸に響き、結局医学部へ進学する。 医学部進学後、大学4年生の夏休み、
敏子さんはバックパッカーとして1人でヨーロッパを1周する。
当時は、日本人の女性バックパッカーはめずらしかったが、とても楽しい旅だった。
旅の途中で出会ったドイツ人の男の子からは「ドイツは面白いよ」という話なども聞き、
9月に一度帰国するも、今度は1年休学してヨーロッパへ行きたい...
そんなことを思うようになる。
医学部長からは、休学・留年なんて前例がないと大反対されるが、
「どうしても行きたい」と説得。
昼はお弁当を持参し、アルバイトをたくさんしてお金を貯め、
結局、ヨーロッパへ旅立つことになる。
お父さんには、伝えていたものの、
お母さんには、旅立つ前日に話すという強行突破。
今思えば、子どもをコントロールしようという力の強いお母さんから自立をしたい...
そんな想いが敏子さんを海外へと駆り立てたのかもしれない。
自分のことを誰も知らないところへ行って、生きていけるのか...
試してみたかったのかもしれない。
住む場所も働く場所も決めぬまま、ヨーロッパへと旅立った。
パリで一花咲かせたいなぁ...そんな想いから
まずは、パリへ。
いくつか仕事の面接を受けるが、言葉の問題もあり全く採用されない。
その後、ドイツ人の友人を頼りにミュンヘンへ渡り
午前中はドイツ語学校へ通い、午後はアルバイトを始める。
ベッドメイキングなどのアルバイトをするが
外国人ということで、差別にあったり、いじめられたり...。
日本にいたら、遭遇しないようなできごともたくさん経験する。
初めのうちは、思うようにいかないことばかりだったが
「医学生なのだから、医学生にしかできない仕事をしては...」と友人からアドバイスをもらい
ラボラトリーで検査をする仕事を始める。
寒天に尿をぬり、発生するばい菌を調べるという仕事。
器用な日本人は、現地の人の倍くらいのスピードで作業ができる。
それが重宝がられ、時給1000円という
当時ではかなり高額な報酬で雇ってもらうことができた。
生活もやっと安定する。
滞在から8ヶ月くらいの頃、大学から「帰ってこないと退学にする」と連絡がきて、
結局1年を前に帰国することになるが
ヨーロッパでの生活は、
「何があってもやっていける」「どこへ行っても生きていける」
そんな「自信」を敏子さんに与えてくれた。
帰国後は、学業に専念し、無事大学を卒業。
東京女子医大の研修医としてスタートをきる。
研修医2年目、28歳で高校時代の同級生と結婚。
ご主人は大手企業でSEの仕事をしていた。
仕事が忙しく、家のことはほとんど手伝ってもらえず...
共働きでありながらも、家事のほとんどを敏子さんが担い
仕事に家事に忙しい毎日を過ごしていた。
その後、いくつかの病院で経験を積み、31歳で妊娠する。
ある日、SEというご主人の仕事に将来性を感じた敏子さんは
ご主人に、「起業をしてはどうか」と話をしてみた。
金銭面では、医師の仕事をしている敏子さんも全面的にサポートできると思っていたし
若かった敏子さんは、「人間は皆、夢をもつものだ」と思っていた。
ご主人も夢を持っているのではないか...そんな風に思っていたのだとか。
でも、起業よりも大企業での安定を求めていたご主人は、
そんな話をされて、隣の部屋に逃げて行ってしまった。
そんなできごとを機に、だんだん価値観のずれを感じるようになり、
結局、娘さんを出産後3ヶ月で離婚することになる。
離婚後は、大阪の実家に帰り専業主婦をしていたが
「そのまま専業主婦になってしまうのはもったいない」
そんなお母さんのアドバイスもあり、
赤ちゃんが1歳3カ月になったとき、大阪の病院に復帰する。
敏子さんのお母さんは、大変苦労して医者になった人だが
3人の子どもを出産し、仕事を辞めている。
そして、それをずっと後悔していたのだ。
それからは、両親に娘さんをみてもらいながら
男性と同じように、とにかくがむしゃらに働いた。
その後、30代前半から考えていた「起業したい...」という想いを叶え
48歳の時、セミナーなどを開催する会社を設立。
そして、更に2年目には大阪の本町に
女性による女性のためのクリニック「ラ・クォール本町クリニック」を開業する。
女性を応援してあげたい...そんな想いの込められたクリニックは
都会の女性の美と健康をサポートする保健室的な存在として
近隣で働くOLさんなどを中心に幅広い年齢層の女性に支持されている
人気のクリニックだ。
サロンのような落ち着く空間の女性専用のクリニックとして
関西では先駆け的な存在だ。
更に、翌年には女性医師のキャリア形成・維持・向上、
そして、働きやすい病院づくりを目指し、
NPO法人イージェイネットを設立。
働きやすい病院評価事業などを行い
業界でも注目され、多数の取材を受けている。
常に時代の一歩先を見て、常に新しいことにチャレンジしている敏子さん。
今後は、リーダーシップを取ることのできる医師の育成に
力を注いでいこうとしているのだとか。
そして、会社もクリニックもイージェイネットも
自分が常に動かずとも回っていくような仕組みを作っていきたいそう。
敏子さんにお会いすると、常に一歩先を見て新しいことを考え、チャレンジされていて
いつも、ワクワクするような話をたくさんしてくださる。
学生の頃から、規制にとらわれない型破り。
常に前を向き、新しいことに挑戦していく...
自分に制限をかけない、とにかくカッコイイ女性だ。
まだまだ今後何をされるのか... 目が離せない。
敏子さぁ~ん。素敵なお話をありがと~~~~。
ラ・クォール本町クリニックホームページ⇒
NPO法人イージェイネットホームページ⇒
女性のデリケートゾーンの痒みや乾燥などに安心して使える石鹸や
抗炎症、保湿、美白、育毛作用のあるオーガニック・セサミオイルなど
ラ・クォールこだわりのオリジナル商品の販売もされてます♪
興味のある方は、クリニックにお問い合わせしてみてくださいね~。
敏子さん、素敵!!って思われたら...
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いつも応援ありがとうございます♪
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今日は、ラ・クォール本町クリニックの院長であり
株式会社マキシマの代表、そして
女性医師のキャリア形成・維持・向上をめざすNPO法人 イージェイネットの
代表理事でもある瀧野敏子さんのご紹介。
実家は開業医。
両親共に産婦人科医という環境に生まれた敏子さん。
子どもの頃から、医者という仕事がどういうものなのか
また、産婦人科開業医の大変さなどを目の当たりにして育ってきた。
野口英世やアルベルト・シュバイツァーの伝記を読んで、医師の仕事に憧れたり...
アポロの月面着陸をテレビでみて感動し、通訳の仕事に憧れたり...
将来のいろいろな可能性に想いを馳せながらも
高校進学後も、理系に進むか文系に進むか、なかなか決め切れずにいた。
理系よりも文系の方が得意で、好きではあったものの
「通訳は人の影になる仕事だから、メインプレイヤーになれないので面白くないのでは...」
そんなお母さんの言葉が胸に響き、結局医学部へ進学する。 医学部進学後、大学4年生の夏休み、
敏子さんはバックパッカーとして1人でヨーロッパを1周する。
当時は、日本人の女性バックパッカーはめずらしかったが、とても楽しい旅だった。
旅の途中で出会ったドイツ人の男の子からは「ドイツは面白いよ」という話なども聞き、
9月に一度帰国するも、今度は1年休学してヨーロッパへ行きたい...
そんなことを思うようになる。
医学部長からは、休学・留年なんて前例がないと大反対されるが、
「どうしても行きたい」と説得。
昼はお弁当を持参し、アルバイトをたくさんしてお金を貯め、
結局、ヨーロッパへ旅立つことになる。
お父さんには、伝えていたものの、
お母さんには、旅立つ前日に話すという強行突破。
今思えば、子どもをコントロールしようという力の強いお母さんから自立をしたい...
そんな想いが敏子さんを海外へと駆り立てたのかもしれない。
自分のことを誰も知らないところへ行って、生きていけるのか...
試してみたかったのかもしれない。
住む場所も働く場所も決めぬまま、ヨーロッパへと旅立った。
パリで一花咲かせたいなぁ...そんな想いから
まずは、パリへ。
いくつか仕事の面接を受けるが、言葉の問題もあり全く採用されない。
その後、ドイツ人の友人を頼りにミュンヘンへ渡り
午前中はドイツ語学校へ通い、午後はアルバイトを始める。
ベッドメイキングなどのアルバイトをするが
外国人ということで、差別にあったり、いじめられたり...。
日本にいたら、遭遇しないようなできごともたくさん経験する。
初めのうちは、思うようにいかないことばかりだったが
「医学生なのだから、医学生にしかできない仕事をしては...」と友人からアドバイスをもらい
ラボラトリーで検査をする仕事を始める。
寒天に尿をぬり、発生するばい菌を調べるという仕事。
器用な日本人は、現地の人の倍くらいのスピードで作業ができる。
それが重宝がられ、時給1000円という
当時ではかなり高額な報酬で雇ってもらうことができた。
生活もやっと安定する。
滞在から8ヶ月くらいの頃、大学から「帰ってこないと退学にする」と連絡がきて、
結局1年を前に帰国することになるが
ヨーロッパでの生活は、
「何があってもやっていける」「どこへ行っても生きていける」
そんな「自信」を敏子さんに与えてくれた。
帰国後は、学業に専念し、無事大学を卒業。
東京女子医大の研修医としてスタートをきる。
研修医2年目、28歳で高校時代の同級生と結婚。
ご主人は大手企業でSEの仕事をしていた。
仕事が忙しく、家のことはほとんど手伝ってもらえず...
共働きでありながらも、家事のほとんどを敏子さんが担い
仕事に家事に忙しい毎日を過ごしていた。
その後、いくつかの病院で経験を積み、31歳で妊娠する。
ある日、SEというご主人の仕事に将来性を感じた敏子さんは
ご主人に、「起業をしてはどうか」と話をしてみた。
金銭面では、医師の仕事をしている敏子さんも全面的にサポートできると思っていたし
若かった敏子さんは、「人間は皆、夢をもつものだ」と思っていた。
ご主人も夢を持っているのではないか...そんな風に思っていたのだとか。
でも、起業よりも大企業での安定を求めていたご主人は、
そんな話をされて、隣の部屋に逃げて行ってしまった。
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結局、娘さんを出産後3ヶ月で離婚することになる。
離婚後は、大阪の実家に帰り専業主婦をしていたが
「そのまま専業主婦になってしまうのはもったいない」
そんなお母さんのアドバイスもあり、
赤ちゃんが1歳3カ月になったとき、大阪の病院に復帰する。
敏子さんのお母さんは、大変苦労して医者になった人だが
3人の子どもを出産し、仕事を辞めている。
そして、それをずっと後悔していたのだ。
それからは、両親に娘さんをみてもらいながら
男性と同じように、とにかくがむしゃらに働いた。
その後、30代前半から考えていた「起業したい...」という想いを叶え
48歳の時、セミナーなどを開催する会社を設立。
そして、更に2年目には大阪の本町に
女性による女性のためのクリニック「ラ・クォール本町クリニック」を開業する。
女性を応援してあげたい...そんな想いの込められたクリニックは
都会の女性の美と健康をサポートする保健室的な存在として
近隣で働くOLさんなどを中心に幅広い年齢層の女性に支持されている
人気のクリニックだ。
サロンのような落ち着く空間の女性専用のクリニックとして
関西では先駆け的な存在だ。
更に、翌年には女性医師のキャリア形成・維持・向上、
そして、働きやすい病院づくりを目指し、
NPO法人イージェイネットを設立。
働きやすい病院評価事業などを行い
業界でも注目され、多数の取材を受けている。
常に時代の一歩先を見て、常に新しいことにチャレンジしている敏子さん。
今後は、リーダーシップを取ることのできる医師の育成に
力を注いでいこうとしているのだとか。
そして、会社もクリニックもイージェイネットも
自分が常に動かずとも回っていくような仕組みを作っていきたいそう。
敏子さんにお会いすると、常に一歩先を見て新しいことを考え、チャレンジされていて
いつも、ワクワクするような話をたくさんしてくださる。
学生の頃から、規制にとらわれない型破り。
常に前を向き、新しいことに挑戦していく...
自分に制限をかけない、とにかくカッコイイ女性だ。
まだまだ今後何をされるのか... 目が離せない。
敏子さぁ~ん。素敵なお話をありがと~~~~。
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